僕は人間よりも、犬のほうが好きだ。シェパードはちょっと怖いけど、人間の怖さに比べてみれば、大したものではない。人間は怖い。犬は優しい。
僕は愛犬の「まる」と住んでいる。豆柴なのに大きめで、たまに柴犬に間違えられる。僕に似て人見知り(犬見知り?)で、散歩中に犬を見つけると僕の足元に隠れる。どんなに小さな犬でも。人間も近寄る人を選んでいる。僕と違って、まるは10代から20代の女性には割と簡単に近づくところがあるけど、それ以外の人にはそう簡単には自分から近づくことはない。すぐ近くに住む祖母にさえ、未だに歯をむき出しにして唸る。
僕はまるによく似ている。すぐには懐かないし、心を開くことはない。近づく人をよく選んで(注視して)から近づく。しかし、一度近づいてしまえば、そのギャップに相手が驚くほど懐く。 LINEや、Slack、Instagramなど、繋がったら毎日のようにメッセージを送る。もちろん僕の心が元気な時は。 僕もまるにはできるだけ構うようにしている。夏でもベッドに来れば一緒に寝るし、お腹を撫でてほしそうにしてたらところんワシャワシャする。だから反対に、僕が構って欲しい時は、嫌がられてもハグしたりする。 まるに無償の愛情を注げるのは、僕がまるに裏切られることがないからだ。人間はそうはいかない。意図的にも、意図せずとも、人は裏切るものだ。 その点、まるは安心できる。そもそも、まるには健やかに生きていて欲しい、1秒でも長く、楽しいという感情でいる時間を過ごして欲しいとしか思っていない。別にそれ以上のことは求めていない。ただ、僕の目の前に存在していて欲しい。それだけだ。 強いて言うなら、僕がサッカーを観ている時は大人しくしててほしいけど、別に可愛いから許してしまう。
では人間はどうだろうか。僕はよく、「人に期待しすぎている」と言われる。自分でもその自覚はある。他者にとってそれは期待なのかもしれないけど、僕に言わせれば、当たり前の水準、求める水準が高いだけなのだと思う。だから、期待とはちょっと性質が異なっているような気もする。
僕がまるに期待しない最大の理由は、話が通じる相手だと思っていないからだと思う。自分よりも劣った、未熟な生命体を前に、可愛い以外の感情が浮かぶだろうか。そう、「可愛い=守ってあげたい」存在なのであって、それ以上の何かを求める相手ではないのだ。だから僕は、「可愛い」という言葉を使う相手を警戒する。対等に見ていない相手に使う言葉だと思っているからだ。
このロジックで言うなら、僕にとって、他者に期待しないということは、対等に見ることをやめることに聞こえる。自分と全く同じか、それ以上できるという予測を捨て、自分よりも劣った存在として、それに見合うだけの期待をするということになる。
そんな残酷なことが許されるのだろか?
僕の師にあたる人は、僕と同様に人に高い水準を求める人だと思う。だからすぐ見切りをつけて、ダメだと思った人には徹底的に冷たい対応をしていたし、場合によっては関わりを遠ざけていたように見える。情熱的な日々の合間に見えるその冷酷な側面を何となく感じていたから、絶対にそっち側の人として見られたくない。そんな気持ちが常にあったような気もする。そして尊敬しているからこそ、よりその気持ちは強かったように思う。
そして期待されることは嬉しいことだ。だって、自分の能力が買われているのだから。ここで期待に見合うだけの働きぶりをすれば、より多くの機会や経験が待っているかもしれない。他人の期待をこちらが予測し、それに見合うだけのパフォーマンスを実現しようとすることは、別にその人を喜ばせようとか、その人に怒られないようにしようという相手主体の話ではなく、自分の可能性を広げる手段の1つだと思っている。
だからこそ、僕は他人に期待しないという感情が未だに分からない。それはとても残酷なことのように聞こえるからだ。
僕もチームを率いることが増えてきた。共同のプロジェクトも進める機会が増えた。こういう場面で僕の期待理論は時に相性の悪さを遺憾なく発揮する。どうやら、他人の期待やらどうやらはどうでもよく、いかに自分が安心した環境で動けるかを重視する民がいることが分かってきた。全く相容れないが、そういうことなら仕方ない。少なくとも、僕の今のケイパビリティでは、そういう人には遠くに行ってもらうしかない。しかし、それは同時に、その人が本来得られたはずの経験や成長機会を僕のエゴによって奪っているようにも見える。ここがなかなか心苦しい。
あらゆる人間関係で、僕にはそういう出来事が定期的に起こっている。それは僕のクセでもあり、明確な弱点、弱みなのだと思う。そして残念ながら、それを確実に修正しなければいけないほどの状況にも見舞われて来なかったことがより事態をややこしくしているような気がする。
それでも、今まで僕が託してもらった期待を踏まえれば、僕もまた、他者に期待し、パスできるだけの打席をパスすることがある意味での恩返しのようにも思う。まだまだ若いし、まだまだこれから色々な経験をする中で、どうするべきかを考え、悩む時期なのかもしれない。
なんて人間は面倒な生き物なんだろうか。と、僕は思う。勝手に傷ついたり、勝手にキレたり。だから僕もバカ正直に生きているわけにはいかない。ポーカーフェイスと冷酷という鎧を着て、現代という時代を生きねばと思う。
反面、だからこそ、まるの前では素直に、ありのままでいられる。まるは僕を傷つけないし、まるは僕がまるを傷つけないことを知っている(多分)。
なんて僕は面倒な人間なんだ。と、我ながら思う。でもだからこそ、心の底から信じられる人の前ではせめて、堂々と鎧を脱ぎ捨てられる人間でいたい。「あ、俺の前では鎧を脱いでるな」という自覚がある方々、引き続きこんな僕をよろしくお願いします。
(上野裕太郎)