← ブログ一覧へ戻る

はなのきおく、好意の累々

 一つ、花の名前を、恋人に教えておくと良いらしい。その人と離別しても、季節が巡り花が咲くたび、自分のことを思い出してもらえるから。

 かの有名な川端康成の短編集『掌の小説』収録『化粧の天使達』には、そういった趣旨の言葉がある(川端 1971)。花は記憶の錨、追憶の繋束、可憐な鎖として色恋に関与する。

 さて、私のファーストネームは「はな」という。見て察される通り、由来には植物の「花」が含まれている。  しかしながら私には、恋が分からない。ただし、歌や書き物など創作物としての恋は、“分かる”。感覚的にも順序を踏んだ思考上でも、その情動の有り様を捕捉できる、あるいは捕捉した気になれる。それはドラマチックで、ときに喜劇、ときに悲劇でありカタルシスをもたらす。それなら自分も時々楽しむ。前述の川端康成の作品を知ったのも、小学生時代に読み耽っていた、とある恋愛小説がきっかけであった。

 “分からない”のは、ノンフィクションの恋――現実で「恋」と呼ばれる感情、思考、また実践とは何たるか――である。

 「恋」と関連して「恋慕」、恋い慕うという言葉があろう。この語はもっぱら恋/恋愛の文脈で用いられる。一方、そのコンテクストに限定されない「慕(う)」単体の感情なら、私もしばしば抱く。己にとってのそれは、とある人間の考え方、振る舞い、感性、声、シルエット……など、自分が憧れる対象への愛着、当人がいなくなっても回想される残香として、何度も経験されてきた。  他方で、「恋」とはいかなる感情・思考・実践を伴うのか。いわゆる世間が暗黙のうちに織り込んでいそうな、「恋」の内包と外延は、私にはインストールされていないようであった 。日がな一日ずっと想い人のことを考えてしまう? 相手のためを思えば何でもできる? 旧知の友よりも常に恋人や想い人に対し優先的に接するし、そうしたいまたはそうすべきと思う? 私は、そのような気持ちを無意識に発生させた試しがない。ただし、これまで、「恋」かどうかに関係なく、様々な対人関係において、特定の人物をいっとう好ましいと感じたことは幾度かある。しかし、それは前述のような憧憬と愛着を核としたものであって、「恋」に伴うように思われる献身や没頭は存在しなかった。

 さしずめ、私は他人に対し全人格的な献身や没頭を示しづらい質なのであろう。それは、自らの未熟さや奔放さに拠る、と結論づけることも可能かもしれない。ただ、その全面的コミットメントを構成要素とする「恋」は、精神的な“成長”の結果みなに訪れるべき、訪れるはずの事象なのか? そんなはずはない。そもそも「恋」という語自体、というより言葉全般は、音により恣意的に切り出され意味が付与された概念である(De Saussure 1916=2016)。そのワードを語彙として共有する人々が「恋」の存在を前提し、信じて情動を感じ、思考し、振る舞うから、はじめてそこに在ると考えることも可能である。すなわち、必ずしも「恋」の輪郭は明確でなく、みながみなその実態を掴めるわけではない。

 そこで、好意の最高位と見なされがちな「恋」に代わり、ここでは、自身にとっては鮮烈な好意の形態であるところの、〈憧憬と愛着〉に関して考えを巡らせたい。  まず、なぜ〈憧憬と愛着〉が己の内で「恋」と読み替えられなかったのか。私は「恋」の実践を、社会的に共有された筋書きに沿う演技(Goffman 1959)と捉えている節がある。これは、先ほど「(『恋』を)語彙として共有する人々が『恋』の存在を前提し、信じて情動を感じ、思考し、振る舞うから、はじめて(『恋』が)そこに在る」と述べた点に通ずる。つまり、「恋」は自己目的的および規範的な力に統率された営為である、という一種のシニカルな見方が、私においては「恋」の共有されたスクリプトよりも先に内面化されていた。

 そして、極めて個人的かつ瞬間的な物事に見える「恋」は、えてして結婚や家族といった、社会制度上の持続的プロジェクトへ接続していく。私は、ここにも強引さを感じてしまう。なお決して、「恋」/結婚/家族それぞれの在り方や3つの接続を非難する気はない。あくまで、自分はそれらに含まれる恣意性に意識的でありたい、また現在の自分にとって肝要な「好意」は〈憧憬と愛着〉に他ならない、という志向である。今後私が恋人と結婚する、というコースを辿る場合、それは相手に対して〈憧憬と愛着〉を抱いたうえで、「恋」・結婚・家族という建て付けを乗りこなそうとするパートナーになりたい、といった思考を経てのことかもしれない。戦後を代表する社会理論家の一人A. Giddensのアイデアを踏まえれば、私は相手の考え方や振る舞い、醸し出す雰囲気といった特徴への〈憧憬〉を足がかりに他者との関係を取り結び、日常という現実の手触りを確かめ、自己の存在――連綿と続く自己――を安定させる担保としている(Giddens 1991)。これこそが、〈憧憬〉に向けられた、心惹かれる離れがたさの正体〈愛着〉である。生きるために、どうしても必要な愛心である。  音楽、食べ物、映画、口癖、仕草……。好きな人たちの面影、ひいては〈憧憬と愛着〉の断片を、気づけば当人のいないところでも探している。彼ら彼女らの影と思い出がふわりふわりと織り合わさって、今と未来の自分が形成される。これは私「はな」の記憶である。  冒頭の内容を思い返せば、少なくとも私という人間は、一度でも鮮烈な好意を抱いた対象の記憶(花)が軸となったり補強剤となったりして方向づけられ、独自のバランスを以て絶えず立ち現れている生き物なのである。そして、誰かが自分に花の記憶を残していくということは、それを残された自身もまた、ひらひらと舞う柔らかな花弁の集まった「はな」となる。    では、貴方は花影を見たことがあるか。この問いかけを以て結びとする。

松本はな

参考文献

De Saussure, F., 1916, Le Cours de Linguistique Générale, Paris: Payot.(町田健    訳,2016,『新訳 ソシュール一般般言語学講義』研究社.) Giddens, A., 1991, Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age, Cambridge: Polity Press. Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everyday Life, New York: Doubleday. 川端康成,1971,『掌の小説』新潮社.