村上春樹に「カキフライ理論」というものがある。これは村上春樹 『雑文集』にエッセイの形式で語られている。
原稿用紙四枚で自分自身を説明することは不可能に近い。しかし牡蠣フライについて書くことはできる。そして牡蠣フライについて書いたとき、そこには書き手と牡蠣フライとのあいだの距離感や相関関係が自動的に表れる。それはすなわち、その人自身について書くことでもある—というものだ。
では私は何について書けばいいか。しばらく考えて、ジントニックだと思った。
ジントニックを初めて美味しいと思った瞬間を、今でも覚えている。21歳、京都、雨の夜、バーのカウンターで。それまでは「大人が飲むもの」として眺めていた。
苦くて、薬くさくて、どこが良いのかわからなかった。
それがある夜、するりと腑に落ちた。あの苦みと炭酸の刺激が「大人の飲み物」ではなく「自分の飲み物」になった瞬間、何かが変わった気がした。世界との距離が、少しだけ縮まったような感覚だった。
人間とは、物差しをもつ生き物だと思う。目の前の事物との距離を測り、意味を見出し、それを言葉や表現へと変換する。
ジントニックが好きか嫌いか。どんな場面で飲みたいか。誰と飲むか、あるいは一人で飲むか。そういった細かな選択の集積が、気づけばその人の輪郭を形づくっている。カキフライでも、雨音でも、犬の匂いでもいい。
何かとの距離をはかるという行為そのものが、人間を人間たらしめているのではないかと思う。
AIもまた文章を生む。精巧に、時に美しく。だが、今のAIにはジントニックを前にした逡巡がない。
初めて飲んだ夜の雨の湿度も、グラスの冷たさが指に伝わる感覚も、苦みに顔をしかめた記憶も持たない。作家が書くとき、そこには必ず経験という地層がある。
何かを好きになるまでの時間、傷ついた夜、言葉にならなかった感情の堆積。アウトプットとはその地層から掘り出されるものだ。
どれほど流暢な文章であっても、経験を持たない書き手には、事物との「距離」が生まれない。距離のないところに、物語は宿らない。
人間は生物である。身体を持ち、時間の中を生き、やがて死ぬ。
だからこそ、ジントニックの苦みに何かを重ね、雨の夜を記憶し、その距離を物語にできる。
私が私であることの証明は、原稿用紙四枚には収まらない。けれどジントニックとの距離なら、少しだけ書けるような気がしている。