今回の記憶は、私の個人的な猫との体験を書き記してみたい。
その猫が死んでから、実家の時間は少しだけ軽くなった気がする。
軽いというのは、楽になったという意味ではなく、重りを外した振り子のように、揺れが大きくなったという感じだ。
神楽坂のいつものバーには振り子時計がある。店主曰く、通常「バーには時計の類は設置しないもの」らしいのであるが、この店にはネジ巻きの壁掛け時計が飾られている。午後七時の鐘がなるなか「最近、実家の猫が死んだんです」私は店主に話しかけていた。
十七年も生きた我が家の猫は、家のあちこちに小さな重さを残していたような気がする。昼間の椅子の上、冬のこたつ、誰も使わなくなった座布団の角。
猫は、元の飼い主の引っ越しの都合で行き場をなくし、私たちの家に来た。
高校生だった私は、事情を深く理解していたわけではないけれど、彼が「もらわれてきた」ことだけは知っていた。友人の従姉妹の家から何も知らされずやってきた猫は最初、怯えに怯え、部屋の隅の暗がりから出てこなかった。引っ掻かれながら無理矢理抱きしめたりなだめたりして、ようやっと見ているところでも餌を食べるようになったのは1週間くらい時が経ってからのことだった。
最初聞いた時、血統書付きのスコティッシュフォールド、しかも黒いオス猫だという説明は、どこか遠い話のようで、彼自身とは結びつかなかった。彼はただ、静かで、少し頑固で、鳴き声もほとんど出さないような、人の生活を邪魔しない猫だった。
老衰で死んだと聞いたとき、私は思ったより泣かなかった。
代わりに、妙に細かいことが気になった。
最後に撫でたのは誰だったのか、そのとき彼はいつもの椅子の上で眠っていたのか、それとも餌でも食べていたのだろうか。
生き物は、説明のつかない部分をたくさん残して死ぬ。それを受け取るのが、人の役目なのかもしれないと思う。
いまでも、実家に帰ると、つい足元を確認してしまう。
そこにいないと知っているのに、身体のほうが彼がいることを覚えているのだ。
人と生物は、こうして少しずつ混ざり合い、別れたあとも、互いの時間に影を落とし続ける。
「それは悲しいけれど、悪くないことだと、私は思っている。」と私が言うと
「……」店主が猫のように静かにうなづいてくれた。
今夜、この神楽坂のバーで、猫の本ばかり置いてあるカウンターの隅を見ながら、アランがこの世から静かに去っていったことを想った。カチカチと振り子の音が聞こえる。