← ブログ一覧へ戻る

人間とは何か

 人間とは何か。私に言わせればそれは、読んできた書籍や雑誌などの文字・情報の塊と身体により体感された記憶の集合体だ。一つの個体としての人間が持つ情報は複雑に構成され(もしくは構成されず点在し)、そしてやがて消えて忘れられていく。忘れられた記憶はどうもうまく保存されなかった記憶として、体内では変にねじ曲がって保持されるらしいが。人間学の発達・歴史を無視して、以下に人間とは何かについて私が考えたことについて、書き記してみたい。

 先日、500冊ほどの蔵書を廃棄した。前職のNPOでオフィスに勝手に置いていた 書籍たちで、実家に一時的に避難していた分だ。小説、文庫本、新書、図本、規定集などここ10年〜20年で蔵書が貯まってしまった。またいつか活用するのではないか、そう思って何度か機会はあったのだが、今日まで処分することができなかった。処分は4年ほど前から断続的に父と母、私で交渉を行ってきた。

 どうしてここまで蔵書が増えるに至ったのか。それは単に私の虚栄心からだ。学部生時代、1年間に100冊の読書を自らに義務づけ、4年間で500冊読み切ることに成功した。私が読んだ、それらの大半は文庫本で、社会人5年目にいちど2度と読み返すことはないであろうという思い込みによって大半の本を捨てている。とにかく人に褒められるには、100単位の物事を成し遂げよ、というのが最初の頃に読んだ自己啓発本に書いてあった。  今回も蔵書を捨てるにあたって、一度埼玉にある実家に帰った。毎度のことながら母が唐揚げをあげて待っていて、作業前に少しそれをつまみ、3時間ほどかけて捨てていい本であるのか否か、一冊一冊確認して行った。父とは二〇歳になる頃からぽつぽつと話をし始め、最近では社会人同志として話をすることができるようになった。思えば読書の習慣を私に最初に形作ったのは、この父である。父は本を読む人ではなかったが、読売ジャイアンツのファンで、毎朝新聞を読んでいた。私の幼い頃は毎日の読み聞かせ、寝る前のなぜ・どうして質問を一身に受け、やがて父は息子にこう言い放つ。片手にものしり辞典なる書籍をもち「実はお前の質問の答えはこの本を読んで答えていた。お前の質問にはお父さんはもう答えることはできないから、これからは自分で読書するなり、誰かに聞くなりして答えを探してほしい」。最初の頃こそ私のなぜという問いに即座もしくはその夜のうちに返答があったものの、回を重ねるうちに返答を待ってほしいと言っていた父は、私の知らぬ間に書籍にて回答を得て、翌日の夜に私に答えを授けていたのだ。毎日の習慣からよほど解放されたかったであろう父の、渾身の言葉だった。この後、4歳ごろから、私は知的好奇心を誰かと共有せず、自ら探求するようになっていく。物事の本質とは何か、死とは何か、人間とは何か、考えていくようになる。

 例えば、AIと人間を分かつものとはなんだろう。それはプロセス・不合理を楽しめるかどうかであると、友人の編集者が昨夜、神楽坂にあるバーで私に言った。

前日、高円寺の飲み屋で編集を担当している作家と2時間、それについて話し合ったらしい。雨が降ってきてしまって談義の後はすぐお開きになったそうだが、作家と編集者がそんなにも密にコミュニケーションを取るものだとは思っていなかったので、私は少し驚いてしまった。  時に不合理的な選択をする動物である人間は、たとえ自分に向かってくる何かが嫌だとしても、それから逃げることがない。植物や動物は嫌なものからは逃げる。その嫌なものというのが、自らの生命・生存に直結する可能性が高いからだ。逃げず、立ち向かう性質があるのは人間の特徴だ。  逃げに逃げ続けて14年、ついに蔵書を廃棄したが、私の私生活は合理的な姿勢とは程遠い。ただ、そのプロセスを楽しめるのもまた、人間であるかららしい、おそらく。 古本屋の回収を依頼した母から、SNSでメッセージがあった。曰く、買取してくれた書店店主は「息子さんは読み線が凄く良い。出世していませんか。上の方まで行くタイプですよ、長年やっているからわかる」と。

 文学部哲学専攻を卒業した僕は一向に出世することはないし、むしろ窓際にいるのだが、本を買い続けて、何かを深く考えることを、そのプロセスをこれからも続けていきたいと思った。深夜、神楽坂のバーで。

高橋拓哉