花とは何か。昔、薔薇の名前という映画を見て痛く感動して、星の王子さまを読んで号泣してからはなんとなく薔薇が好きで、街路やどなたかの家の玄関先に咲く薔薇にだけは敏感に反応してしまう。今回は、私の個人的な花との体験を書き記してみたい。
「花影ってなんのこと」私がなんの気無しに聞くと、彼女は即座に「古語の影のことです」という。確か影とは光、形、を指し示す言葉だったから、差し詰め花影とは花の形、と解釈すればいいのだろうか。いつもの神楽坂のバーに初めて来た彼女は、平日だと言うのにカジュアルな格好で、自然体のまま飲みっぷりよく赤ワインを呷り始めた。「花が落とす影、といった使い方をされる方がメジャーなんですけどね」とカウンターに飾られている花の影を指しながら、補足説明を付け加える。
壁にかかった振り子時計の短針はまだ午後7時を指していない。
高校生だった時一つ下の学年の女の子が僕を好いてくれて、結局僕らは別れることになったのだが、その彼女のことが大人になってからずっと忘れられなかった。忘れるために数年間、カウンセリングに通った。 ある日、珍しく僕が怒った。彼女の遅刻癖が治らなくて、放課後に二人で公園に行く約束に彼女が遅れてきた。クラスの文化祭の出し物を決める大事な会議があるかなんかで、遅刻の理由は今からすれば大したことのないこと。彼女は僕の家まで自転車でわざわざ追いかけてきてくれて、花束を渡してくれた。先輩が何が喜ぶかわからなかったから、と。当時僕はずっと希死念慮に囚われていて、その花束を持ってそのまま死んでしまいたい、と素直にそう想った。
大人になって好きな女の子に薔薇の花束をプレゼントした。その花の影を写真に撮って、大事にした。僕は彼女に程なくしてフラれたけれど。 下北沢で一緒にワインを飲んだお姉さんが仕事や年収のことばかり聞いてくるから「肩書きなんてどうでもいい。あなたは好きな花の名前の一つも言えないのか」と説教したら、そのあとカラオケに連れて行かれ、SMAPのオレンジを熱唱したら号泣され、深夜になぜか告白されたこともあった。 30代になって、うつで休んでいる彼女ができた。僕はどうにかその人を元気付けようと、毎月3本の薔薇をお付き合いの月記念日にプレゼントすることにした。やがてそれが毎月1本になって、最後は0本になってしまった。
僕が好きな花は、薔薇だ。
「ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。」と星の王子さまは言う。
あの花とは、薔薇のことを指す。
毎年、新宿御苑ではたくさんの薔薇が咲く。違う人と見る薔薇も、一人で見る薔薇も。
先日までこの神楽坂のバーは新宿の一角にあった。それが引っ越してきたのがまだ寒い時期のことだった。さっきまで花影について語っていた隣の女性は、僕が回想に夢中になっている間に、反対側の男と言語の話で盛り上がっている。 今夜、この神楽坂のバーで、花の入った花瓶がいくつか置いてあるカウンターの隅を見ながら、枯れてしまった薔薇たちのことを想った。今、目の前の花瓶には百合の花が飾られている。カチカチと振り子の音が聞こえる。
高橋拓哉